印刷燦燦
9月10日前後のこと。深い悲しみの内に
副理事長、釧根支部長
藤田 卓也
藤田印刷株式会社代表取締役社長


 9月11日の同時テロに隠れてしまったが、9月9日北海道が輩出した映画監督・相米慎二が肺ガンで逝去するという愕然の訃報が入った。彼とは中学の生徒会活動をともに担い、高校は分かれたけれど新聞会や社研・映研などで友情を深め多感な少年時代に青雲の志を語り合った仲だった。大学も早稲田と中央で別々となったが、激動の60年代末期全共闘世代の最前線に身を置かざるを得なかった私たち団塊組の数少ない盟友であり、心友だった。彼は1948年1月13日、盛岡に生まれたが小1に札幌へ、小6からは標茶へと移り住み、釧路へは汽車通学をしていた。中・高を通じ常に思想・哲学・芸術などの最前衛を目指していた彼は、既に高2でトロッキー選集も読み終えるほどの早熟だった。また、メキシコ芸術運動の中心にいた画家達  とりわけ今や世界的なブームとなった女流画家フリーダ・カーロやリベラ、シケイロスなどについても多くを教えられた。釧路江南高校卒業後、中央大学法学部中退、'72年に契約助監督として日活入社。3年後フリーとなり寺山修司監督や長谷川和彦監督の「青春の殺人者」「太陽を盗んだ男」のチーフ助監督となる。80年に「翔んだカップル」で監督デビュー。翌年の薬師丸ひろ子主演「セーラー服と機関銃」(81年)が大ヒット。「ションベン・ライダー」(83年)から85年「台風クラブ」で第1回東京国際映画祭ヤング・シネマ大賞受賞。93年「お引越し」では、家族の再生をテーマに描いて反響を呼び芸術選奨文部大臣賞受賞。99年「あ、春」がベルリン映画祭国際批評家連盟賞受賞。道内を舞台にした映画も多く、斉藤由貴主演の「雪の断章  情熱」は函館で、小檜山博原作「光る女」は滝上町だった。
 また、青森県大間町と増毛町でロケを重ねた「魚影の群れ」も評判を呼び、いずれの作品も独特の長回し映像が特徴だった。今年3月には帯広在住鳴海章原作、小泉今日子・浅野忠信主演「風化」のロケを佐呂間町高隆寺を中心に行ったばかりだが同作品が遺作となった。それにつけても53歳は余りに早過ぎた。60歳を超えてからの円熟した作品を是非見てみたかった数少ない偉大なルサンチマンである。私は天を仰ぎ打ちひしがれて胸が張り裂けそうであった。合掌。
 翌日9月10日にこれまた釧路が生んだ北海道出身の戦後世代唯一人の土門拳賞に輝くフォトジャーナリスト長倉洋海が20年近くに亘って全国各地で紹介してきたアフガン解放運動の獅子・マスード司令官がタリバン・アルカイーダの自爆テロで暗殺されるという大ニュースが飛び込んできた。私は早速アフガン出発準備中の長倉洋海と連絡を取り合い、9月25日地元で330名の市民とともに“マスード追悼の夕べ”を開催しアフガン難民救援金を彼に託した。マスードは16日、故郷の山々とパンシール川が展望できる渓谷の丘に埋葬された。
 いずれにしても9月は衝撃の月であり、私は3日連続で起きた事毎に只々圧倒されていた。その後はNimda−A型・E型との戦いが続いている。

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