印刷燦燦
「井原はドナー不足を何故訴えたのか?」

常任理事・釧根支部長 藤田 卓也
藤田印刷株式会社代表取締役社長

 釧路湖陵高校3年の3人兄妹の末のひとり娘が早逝して7ヶ月が過ぎた。ようやく安寧を取り戻しつつあるが、3月18日の春彼岸入りで級友が卒業進学離釧の報告にお参りを頂く度に、元気だった娘の毎日が思い出され家族共々内省の日々が今尚続いている。
 振り返ってみると、私は勿論、家内や家族の誰もが高校生の病気への備えや『白血病』の情報蓄積など、昨年の今頃は皆無と云っていいほど持っていなかった。
 娘は高校3年の昨年4月に急激な体調変調を訴え、5月2日釧路労災病院で検査後北大へ検体を送ったところ、M=6型の『AML急性骨髄性白血病』と診断され即刻無菌室=クリーンルームへ入院し検査と治療(=抗がん剤やステロイド投与、輸血など)が開始された。
 本田美奈子が全く同じ症状で骨髄移植に一旦は成功したことをその後の報道で知り得たが、M-0型からM-7型まで『骨髄性白血病』には8種類あることや、夏目雅子のような『リンパ性白血病』には4種類あることを急速に私は学ぶこととなった。
 さて急性、慢性を問わず切除癌とは異なる血液がんには『寛解』療法と云う根治とは異なる治療方法が取られるのだが、現代医学では『骨髄移植』に成功できれば50%〜70%の生存率で移植後5年の経過を待つことができる。私たち家族は全国25万人もの骨髄バンク登録者がいる中で、骨髄移植までは簡単に至れるものと医師団を固く信じ、高を括っていた。
 問題はここからである。
 輸血と違って保存の効かない臓器移植同様の骨髄移植では、骨髄採取後24時間以内の手術が必要となる。しかも宇宙空間並みの無菌工場状態での手術であるため北大病院か北祐会病院となり道内第4の地方都市といえども移植は無理なのであった。つまり25万人もの骨髄バンク登録者がいても大都市以外での移植は不可能であり、しかも登録者有効数は2%〜5%の5,000人〜12,500人に過ぎないのであった。井原がドナー不足を訴える理由がそこにある。一方HLA同型ドナー(80%タイプが合うと良いのだが)は兄弟姉妹の確率で四分の一であったが兄2人やいとこたちにも同型は現れずバンク登録者に希望を託すこととなった。そして101人の同型ドナーに辿りつき骨髄バンク財団の支援を得て5人ずつの交渉が治療と平行して開始された。しかし4人目までで行き詰ってしまった。曰く、14年前にバンクに協力したが既に40歳を超えている、家族の反対で協力できない、独身時に登録したが今は結婚している、公務員で無いので移植特別休暇など与えられそうにない等々であった。私は東大病院や慶応病院へも相談に赴きひたすら北大転院を待ち続けた。そして8月20日転院を前に遂に8月12日の当日を迎える訳である。入院からたった103日間の戦いであった…。
 さて話は飛ぶが、私の厳父は26年前に僅か59歳と云う若さで急逝した。厳冬期1月に地元代議士の新年交礼会場を後に小雪舞うタクシー乗り場で並んでいて脳内出血を惹起してしまった。不覚といえばそれまでであったが病院に担ぎ込まれて驚いた。釧路市内には当時レントゲン設備しか無くCTやMRIの一台も皆無で出血箇所が特定できないため処置不能判定となった。私は漸く愕然とした四半世紀前の事ごとを思い起こした。今では全く考えられないことなのだが、これが医療過疎地方都市の実態である。私は大都市にいる身内の医者たちに思いをめぐらしながら同じ過誤を招いたことで再び打ちひしがれてしまった。

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